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セカンドキャリア支援事業

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2017年02月09日 [会員インタビュー]

第6回 顧問 清水嘉与子さん「とにかく、学ぶチャンスがあれば、そこに行きたいと思って動いていたんです」

NPO法人看護職キャリアサポート 濱田安岐子
インタビューを受けて頂いた方 清水嘉与子さん(日本訪問看護財団理事長 元参議院議員)

日本訪問看護財団 理事長/元・参議院議員
1958年東京大学医学部衛生看護学科卒業後、関東逓信病院で保健師・看護師長として10年間勤務。東京大学医学部保健学科助手を経て、厚生省看護課(保健婦係長、課長補佐・課長)で15年間看護行政に取り組む。1989年参議院議員(自民党比例)に当選後、看護をはじめ医療保健・福祉、環境問題などにかかわる。その後2期連続当選を重ね、この間労働政務次官、文教委員長、環境庁長官、少子高齢社会に関する調査会長を務める。2008年4月日本訪問看護振興財団理事長に、2009年5月国際看護交流協会理事長に就任。2009年6月から2013年7月まで日本看護連盟会長を務めた。

友達付き合いで受験したことがきっかけで看護師に?!

濱田:清水先生が国会議員としてご活躍されたことは看護師であれば誰でも知っていることなのだと思いますが、そもそも、看護師になられたのはどのようなきっかけからなのですか?
清水嘉与子さん(以下、清水・敬称略):私は、高校を卒業する時に「女性でも働くための資格を取りたい」と考えていました。学校の教師とかを考えていたのだけど、そのころの友達が看護師になりたいと言ったんです。それが国鉄の看護師なのだけど、国鉄の職員になるとどこに行くにも無料で電車に乗れるっていう理由でね(笑)、それが楽しそうで、一緒に受験しました。そうしたら、肝心の友達が落ちてしまい、私が受かっちゃったんです(笑)。私は付き合っただけだから、入学のための手続きをしませんでしたが、看護師もいいかなって思いました。そんな時、高校の先生が東京大学の看護学科の受験案内をしてくれたので、受けてみようと思ったんです。東京大学の看護学科は2回生で、まだ新しくて試験もやさしいかなとか思って(笑)。
濱田:東京大学を気軽に受けて受かっちゃうところがすごいですね!学生生活はどうだったのですか?
清水:楽しかったですよ!看護学科の5人でボート部を作って合宿したり、隅田川にボートを出したりと、楽しい大学生生活でした。
濱田:そうなのですね〜。看護の勉強の方はどうだったのですか?
清水:勉強の方は基礎医学は楽しかったけれど、看護学は余り興味が持てませんでした。でも、湯槇ます先生ほか、全国から集められた優秀な看護の先生方から教えていただいたんです。ただ、医師の講義と看護教員の講義の内容が重複しているなど、教育の内容に不満を持っていました。実習も東京大学医学部附属病院の分院で行い、病院の看護師たちは学生の教育にノータッチといったところがありましたね。衛生看護学科の誕生を歓迎する先生方ばかりではなく、学閥社会の中で看護を学ぶ環境はあまり良くなかったんです

保健指導は相談者から学んだ

清水:私は卒業した後、関東逓信病院で10年間保健師として働きました。当時は、大学を卒業すると保健師の資格まで取得できたのです。関東逓信病院は電電公社の病院で、その職員のための医療をしていました。病気を予防するための健康管理科を持っていて、保健師が配置されていたのです。本来は病気を治療する前に予防することが大事でしょう?だから、私は保健師としてそこで働くことにしたのです。そこで、素敵な婦長さんと出会いました。私は保健師の資格は持っていたけど、自信をもって保健指導はできないし、小児科を担当するように言われましたが、学問は知っていても何もできませんでした。だから、「大学に行って勉強したい」と言ったら、1週間に1回大学に戻って勉強する時間をくれたんです。
濱田:すごい!今では考えられませんよね。
清水:そうなんです。その婦長さんは私に学ぶチャンスをくれました。だけど、改めて医師の保健指導の仕方を見てみたらマニュアル通りでみんな一緒だったんです。人間には個別に生活があって、そこを改善しなければ指導にはなりません。だから、すぐにその勉強は卒業してしまいました。次に考えたのは、相談者であるお母さんや赤ちゃんに教わろうということです。相談者から教わろうと思って話を聞いていたら、みんな生活が違って、それぞれに合った指導を自分で勉強していきました。そうやって、私が指導できるようになるまで、婦長さんはずっと待っていてくれました。本当にいい婦長さんでしょ!
その後、婦長さんが東京都看護協会の保健師部会に参加するように推薦してくれたのです。そこでは、さまざまな人たちと情報交換ができて、とても勉強になり、私の視野は広がっていきました。婦長さんのおかげです。でも、そんな時、東京大学の金子みつ先生から大学に戻ってくるように声をかけられました。臨床も楽しかったから、とても悩みました。悩んだ末、大学に戻ったところ、大学紛争の時期と重なったのです。金子みつ先生の下で助手をしていましたが、教室は占拠され1年以上大学から追い出されました。後に、追い出した人が参議院議員になるのですが、私が参議院議員になってから「先生!私の事を教室から追い出したのよ!」と言って笑ったというエピソードもあります(笑)。
濱田:面白いめぐりあわせですね! でも、教育ができない状況で、先生は何をしていらしたのですか?
清水:学生が教育を拒否していましたからね…でも、細々と看護学教室での研究の仕事とか、看護協会の役員をしていたから、いろいろなところで仕事をしていました。それから、教員が集まって、これからのことや看護学をどうしていくか、どう認めさせていくかなどを話し合っていました。金子先生にしても湯槇先生にしても、東京大学では助教授までで教授にはなれませんでした。1952年に衛生看護学科は出来たのだけど、卒業生で1回生の見藤さん看護学初の教授になったのは、1985年でした。東京大学はそのころそういうところだったのです。結局2年間で東大の教員生活は終了して、厚生省に行くことになりました。

看護師冷遇の制度を変えた厚生省時代

濱田:清水先生は、臨床にいたころから、看護学の発展をどうしていけばいいか考えていたのですか?
清水:そんなこと、考えていませんでしたよ(笑)とにかく、学ぶチャンスがあれば、そこに行きたいと思っただけです。大学で看護の存在感がないなんて、思ってもいませんでしたからね。
濱田:金子みつ先生は、なぜ清水先生を大学に呼びもどしたのでしょうか?
清水:卒業生で臨床をしていたからでしょうね。他の同級生たちは臨床に携わっておらず、研究者とか行政に携わっていました。何といっても東京大学は卒業生でなければという思いあったのでしょうね
濱田:清水先生はなぜ臨床を選んだのですか?
清水:それは、たまたまです。友達のお父さんが電電公社に勤めていて、就職先を決める時に紹介してくれただけで、自分で探したわけではないのです。
濱田:たまたま!そうなのですね。
清水:そうなんです。みんな看護師や保健師の資格を持ってはいたけど、臨床の現場に就職した人は少なくて。今ではこの選択がよかったと思っています。そうでなければ、素敵な婦長さんにも出会わなかったし、今の私はありません。
濱田:厚生省では何をされたのですか?
清水:最初に行ったのは、看護師不足解消のための学校作りの調査でした。全国の実習病院を見て回ったのですが、看護師が専門職として遇されていない、看護師自身プライドを持って働いていない姿に本当にびっくりしました。現場で「看護師の退職を防ぐために処遇をよくしたらどうですか」と言ったこともありましたが、「いや、看護師は定着しなくていいのです。低い賃金で昇給する前に辞めてもらった方が都合がいい」と言われました。厚生省から来た私に対して、平気でこういうことを言う時代でした。
私はこれではダメだと思いました。でも、そのころの厚生省は医師のお手伝いをする看護師を増やすために教育制度を変えて、短期間で養成できる准看護師を増やそうという法案を出していました。私は看護協会の役員もし務めていて、准看護制度に反対していたので、複雑な思いで厚生省へ移ったのです。その法案は審議されず時間切れで廃案になりました。これが通っていたら大変なことになっていたでしょう。そしてその後、看護師を中心に確保対策を作ろうということになり、まず、看護職員需給計画を作ることから始めました。通らなかった法律のために予算が取ってあったので、その予算を厚生省管轄の看護師の養成所を作るために使いました。それから、看護師の病院内保育所を作るための補助金制度を作りました。さらに、潜在看護師の活用のために、ナースバンク事業を始めました。そういう今ある事業の土台を作っていったのです。
濱田:すごいですね!今の制度があるのは、清水先生が始めてくれたからですね!
清水:ほかにも、いろいろやりました。看護師の統計資料や看護六法を作ったのも私たちなんです。忙しかったんですよ〜!
濱田:え〜すごいことですけど、そんなに忙しくてプライベートはどうされていたのですか?
清水:プライベートなんてありませんでしたよ!法律や制度を作るためには夜遅くまで残って書類を作らなければなりませんでした。でも、厚生省の仲間と一緒に毎日、日の出と共に営業を始めるゴルフ場に行って、ゴルフをしてから仕事に行ったんです(笑)。結婚もしないで、青春をささげてしまいました(笑)。15年間で、課長までなりました。
濱田:先生、結婚されなかったこと後悔していませんか!
清水:う〜ん、なんとも言えませんね。いい人がいれば、今からでもいいんですよ(笑)。

恩師の一言で国会議員に

清水:厚生省にいても、行政は縦割りになっていたから、老人・母子・精神・障害者・・・みんな所管課があって、看護課だけではどうにもできませんでした。看護師がなれるのは課長まででしたから、限界を感じていました。でも、そのころ、看護師でもある石本茂先生が国会議員に再選され自民党に入られたのです。途端に、看護を支える議員がいっぱいでてきました。橋本龍太郎さんなんて本当によく支えてくれて、看護師の処遇をよくするために活躍してくれました。例えば、夜勤看護手当てです。そのころ夜勤看護手当ては350円でした。100円から始まって、50円くらいずつしか上がらなかった時代に、今の厚生労働大臣の塩崎恭久さんのお父さんである塩崎潤さんという国会議員が「10倍にしよう!」と叫んでくれたんです。その後、一気に夜勤手当が1000円まで上がりました。塩崎さんはこの後「夜勤の塩崎」って言われるようになったんですよ(笑)。看護の問題は大事なことですが、一番解決しにくいことでしたからね。看護の国会議員を応援してくれた人がたくさんいたんです。
濱田:それで、国会議員になったのですね。
清水:そうなんです。それで石本先生がそろそろご引退の時に次の人をという話になって、そのころ日本看護協会の会長をしていた大森文子先生が私に「国会議員になりなさい」って言ったのです。大森先生が東京大学の助手をしていた時に私が教わった経緯があって、私も「先生に言われたならやらなくちゃ」って思いました。
濱田:そういうつながりだったのですね。
清水:厚生省の15年の経験が、国会議員の時代に役に立ちました。
濱田:国会議員時代に一番充実感があった仕事は何ですか?
清水:看護の問題をとにかく解決しなければならなかったから、「看護問題小委員会」を作りました。普通は国会議員になったばかりで委員長にはなれないのですが、看護問題のことが分かるのは私しかいなかった上、党の社会部会長が「あなたが委員長を務めなさい」って言ってくれたので、メンバーを集めて勉強会始めました。そこで初めにやったことは「看護の日」を作る提案でした。
濱田:5月12日に看護の日は清水先生が作ったのですね!
清水:自民党発の政策なんですよ。次の年にまとめたのが、看護師の人材確保の法案作りへの提言でした。ちょうど厚生省でもこれからの高齢社会のことも考えて介護の人たちと一緒に法律を作らなければということになって、1992年に「看護師等の人材確保の促進に関する法律」を作りました。この法律は全部の党が賛成してくれたので、重要法案として代表質問もさせてもらいました。その法律は、とにかく、各省が看護師を確保するための基本指針を作らなければならないという内容のものでした。それがきっかけで、看護の大学教育化が広がり、今や全国の大学の3分の1に看護課程が置かれるようになりました。看護師はこれから自律していかなければいけません。患者さんにも「看護師さん」ではなく、名前で呼ばれる責任ある仕事をしていく必要があります。

今の師長は優秀!〜自信を持って活躍してほしい

濱田:本当にそのとおりですね。医師のお手伝いではなく、自律して医師とも対等に看護の力を発揮していく必要がありますよね。現役の師長さんたちへのアドバイスをお願いできますか?
清水:そうですね、私が新人看護師の時に出会った婦長さんのような、学ぶことを支えてくれる師長でいてほしいですね。新人さんは不安で仕方がない人が多いと思います。そういう新人たちが安心して育っていけるような環境を作ってほしいですね。
濱田:今の看護師長さんたちは忙しくて疲れているし、自信のない方も多いように思いますが…。
清水:でも、私が師長をしていたころよりも優秀な人が多いじゃないですか!文章も書類も上手に作るし、意見をきちんと言えるし。コンプレックスは持たなくていいから、現場でやっていることに自信を持って活躍してほしいですよ!
濱田:では、最後に清水先生も会員であるフリージア・ナースの会での活動について、ご意見をいただけますか?
清水:生涯看護職としてのアイデンティティを持って、活躍し続けてほしいと思っています。元気な人多いですしね!活動していると元気になりますよ。今は年金も保障されているし。社会に対してエネルギーを還元していかなくちゃいけませんね。

インタビューを終えて

セカンドキャリアを迎えた皆さんへのインタビューは今回が最後となります。最終回である次回、本連載を振り返りつつセカンドキャリアについてまとめさせていただきます。最後を締めくくってくださったのは清水嘉与子先生でした。今の看護師の社会的地位を築いてくあり、清水先生のお話しを聞きながら、看護師はこれまで以上に自律して医療チームの中で医師と対等に仕事をしていけるように、自信を持って看護力を発揮していく必要があると強く感じました。

第6回
この記事は日総研出版のナースマネジャーに掲載したものです。日総研さんのご協力のもと、ホームページへの掲載が実現しました。

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