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2016年11月07日 [会員インタビュー]
第3回 会員 齋田トキ子さん 「マネジメントには問題点を見極める力が必要!それを身につけるには、いろいろな経験をすること」
元・東北公済病院 看護部長
1943年に石巻赤十字専門学校を卒業後、仙台赤十字病院、石巻赤十字病院看護師として臨床看護を、角田市国保組合保健師として公衆看護を、東北公済病院看護部長として看護管理を、宮城県衛生部で看護行政を、石巻赤十字看護専門学校、岩手女子看護短期大学で看護教育を、そして今日は東北大学大学院医学系研究科で研究者として、常に現場を見つめ、質の向上に努めている。2009年に第42回フローレス・ナイチンゲール記章を受章。
前回(本誌Vol16、bV)は、元三木市立三木市民病院の看護部長であり、現在はホームページを運営して情報発信しながら全国を研修講師として飛び回っている多羅尾美智代さんにお話しを伺いました。多羅尾さんがセカンドキャリアをどのように充実させているのかについて、たくさんの話を聞くことができました。これまで、個人で活動していたことを、これからはフリージア・ナースとして、自分が「取り組みたい」と思う「できること」を、なにかに縛られることなく、自由に活動してくださいます。
フリージア・ナースの会は、65歳以上を中心に、55歳以上の現役の看護管理職と看護の教育職とともに活動しています。「未来への期待」を花言葉としたフリージアを象徴に、臨床や教育の現場、そして、ニーズに応える社会貢献によって成熟した看護の未来に向かい、看護職がつながることで個々の活動を支援しながら、組織的に活動を進めています。
さて、今回インタビューにご協力いただいたのは、齋田トキ子さんです。齋田さんは、2009年に「フローレス・ナイチンゲール記章」を受章されています。ナイチンゲール記章は、顕著な功績のあった看護師に授与される世界最高の記章です。赤十字国際委員会フローレス・ナイチンゲール記章選考委員会(スイス・ジュネーブ)から発表され、齋田さんが受章した2009年は、世界15カ国から28人が受章しました。日本では101番目の受章です。齋田さんには、現在の看護職としての活動を含め、全国の臨床で活躍する看護管理職へのメッセージをお話しいただきました。
第2次世界大戦における看護経験
齋田さんは、1943年に石巻赤十字病院甲種救護看護婦養成所を卒業し、第2次世界大戦において戦時召集令状を受けて中国の上海市にあった日本軍の傷病者を治療する兵站病院に配属になったそうです。前線から移送される負傷した日本軍兵士をトリアージしながら、衛生兵と共に昼夜を問わず看護業務に邁進する日々を過ごしました。しかし、B29の空爆が激しさを増し南市陸軍病院(第173兵站病院)に転属となり、1945年8月15日に終戦の詔勅を拝聴したとのこと。終戦後は同年8月26日に部隊ごと撤退、傷病者の療養場所を求めて日本租界にあった上海第一女学校と商業学校に移動し、第157兵站病院の傷病兵収容機能準備を完了、9月2日より救護活動を開始しました。第157兵站病院の改修工事は、隙間のないように藁布団を引きつめて教室を病室とし、看護婦室・診察室・被服室・給食室などを配置し、重慶・南京・武漢・漢口など奥地から移送されてくる傷病兵を収容しました。そして病衣の着脱、軍医の診断の結果から入院病棟を決めるなど、さまざまな看護業務を臨機応変に行ったそうです。
1日600人ほどの傷病者の収容作業では、広い講堂の床がノミ・シラミ・南京虫でいっぱいになり、それを大きな塵取りでかき集め、一作業でバケツ3杯ぐらい焼却したのは忘れることができないとのことでした。また、戦病死した兵士の埋葬は並大抵の仕事ではなかったそうです。当時、1日に死亡する将兵は2,3人おり、1週間に1回部隊長ほか関係者が参列し、僧侶の経験のある衛生兵のお経で荘厳なお葬式をあげ、ご遺体は火葬場がないので土葬することになったそうです。あらかじめ、ご遺骨として確保したのは、1人につき指2本であったとのこと。齋田さんはそれらの業務を遂行するよう命令を受け、ご遺体を葬る穴を確保し、ご遺骨の指を火葬にして、白木の箱に納め安全に保管しました。そして1946年4月24日すべてのご遺骨を将兵が持参し、日本の舞鶴港に入港したとのことです。日本で待つ家族のために遺骨を確保して持ち帰るという苦渋に満ちた仕事は、尊い命を落とした人とそのご家族を再会させることを重要なケアとして看護実践されました。この時、弱冠20歳だったそうです。
戦後、看護管理者として要職を歴任
戦時救護班は1946年5月3日解任となり、齋田さんは生家に帰宅し養護教員免許、保健婦免許を取得して故郷の国民健康保険組合の保健婦として働きました。そして、石巻赤十字高等看護学院で教務主任として看護教育に従事したのち、宮城県衛生部に看護関係者初の行政担当官として赴任、県内病院の看護業務や管理指導、現任教育、看護基礎教育機関の指導などに従事し、県の看護行政の基盤づくりと看護の人材育成等に尽力されました。そして、東北公済病院看護部長、日本看護協会理事、宮城県看護協会初代理事長、岩手女子看護短期大学教授などの要職を歴任し、優れた管理手腕により看護職の質向上に大きく貢献されたのです
制服へのあこがれから教師ではなく看護の道へ
濱田安岐子(以下、濱田):齋田さんの看護管理職としての最後の現場は、東北公済病院の看護部長職ですね。現在は、東北大学の大学院医学研究科でカンファレンスに参加されたり、執筆活動を進めていらっしゃるのですよね。
齋田トキ子さん(以下、齋田):そうですね。看護大学や看護専門学校で、関係法規や看護研究、看護管理についても学生に伝えていましたが、現在は看護専門学校で外来講師として授業をしています。
濱田:お元気ですね。齋田さんの経歴を伺うと、ずっと重要なポストを努めていらしたことが分かります!
齋田:子どものころは、高等女学校の先生に「卒業したら師範学校に行きなさい」と、学校の教員になることを勧められたのだけれど、近所に住んでいた先輩が日本赤十字社の看護婦養成所で学んでいて、赤十字看護学生の制服を着て颯爽と歩いているのを見たら、その制服にあこがれてしまって。赤十字看護学校の試験が師範学校の前にあり、そちらが先に合格したので看護の道に入ることを決めてしまったのです。でもその後の職業人生は、「あなた、この仕事をやりなさい」と上司に指示を受け、従順に従い艱難辛苦を受けながら務めてきました。看護師になって、第2次世界大戦中に中国の上海第一陸軍病院(後に第157兵站病院と改称)に従軍し、その後上海地区南第173兵站病院に転属となりそこで終戦を迎えたのです。帰国後は第1回東北7県指導看護婦講習会(3か月)や第4回専任教員講習会(4か月)の研修を受け助産師の資格を取るなど、ずっと勉強もしてきました。専任教員講習会では、高橋シュン先生や湯槇ます先生、金子光先生などが講師をされていました。そのころ、25歳でした。看護師の第1回国家試験は1950年で、学生も先輩も後輩も共に受験したのです。自分自身も受験準備をしつつ、石巻赤十字病院に勤務していた看護師・助産師の方々の再教育なども協力させていただいたので、本当に大変でした。1953年8月からは宮城県の技術吏員として働き、県内の看護師教育や指導者教育に明け暮れていたのです。1950年に初めて完全看護の制度が健康保険法に導入され、1958年には基準看護と改正されましたが、その基盤整備のために行政では看護師の指導者としての役割を担当しました。若いころに、目まぐるしく、いろいろなことをしたんですよ。何も知らないのに責任ばかりが重くなって、応えられない自分が「情けない」と思っていました。これは、私の役割なんだと思っていたからです。
濱田:凄い経験と責任感ですね〜。
留学で得た経験から看護現場を改革
齋田:これらがね、大変だったけど、看護部長になった時に大きな力になりました。助産師さんなどは「助産師免許を持っていないと自分たちの仕事をわかってもらえない」と思っていたかもしれない時に、私のようないろんな資格を持った看護部長で良かったみたいです。看護部長に就任してまず始めたことは、看護師の院内教育と母親学級を立上げました。私はできるだけ安心したお産をしていただきたいという念願がありました。そのころの分娩室の環境はあまり良くなくて、妊婦さんの苦しむ大きな声が病棟中にひびいていたのです。それを「なんとか工夫はないか?
こんなに苦しまずに分娩ができるのではないか」と思っていました。それが、やがて母親学級と立会い分娩と、母乳管理の在り方が誕生することになりました。そのころ幸運にも1972年共済医学会で3か月間の留学制度に適応させていただき、北欧とヨーロッパ、アメリカの病院管理の31日間の見学のコースを企画していた旅行会社をたまたま見つけることができました。そのツアーに参加して、病院の見学、管理体制の説明などを伺い勉強したのです。北欧はスエーデン、ノールウエイ、デンマークの3か国、ヨーロッパはドイツ、スイス、イタリア、イギリス、スペインの5か国、アメリカ合衆国の総計9か国、都市はストックホルム、オスロー、コペンハーゲン、ベルリン(東西)、ジュネーブ、ローマ、ナポリ、ロンドン、マドリード、トレドの11都市、アメリカ合衆国のワシントンDC,ニューヨーク、サンフランシスコ、ラスベガス、ハワイの5都市、病院の見学は、スエーデン大学病院、オスロ大学病院、ベルリン大学病院、聖トマス病院、マウントサイナイ病院、カルフォルニアパシフィック医療センターの6病院を見学しました。医療体制や患者ケアの在り方は国によって異なりましたが、たいへん参考になることが多く充実した見学でした。特に立会い分娩については、イギリスの聖トマス病院で知りました。日本はそのころ、分娩室には医療者以外は誰も入ってはいけないことになっていたのです。しかし、聖トマス病院の助産師と師長さんに色々と教えてもらって今まで探し求めていたのが「これだ!」と思いました。立会い分娩について、お産は閉鎖的なものではなく、子供が生まれることは家族の中でとても素晴らしいことだという文化の権化でした。
濱田:やっぱりイギリスはナイチンゲールの国ですね!
齋田:そうね。アメリカも設備は素晴らしかったけど、保険制度も貧富の差がありました。そんな、研修体験をして、看護部長としてのいろいろな改革に取り組むことができたのです。助産業務の取り組みの他にも、いろいろな改革に取り組みました。そのころ、経時記録でしかなかった看護記録を、患者が知りたいと思う看護のプロセスが見えるPOSにしたいと、医師を巻き込みながら検討を重ねました。長い年月をかけて記録の改革にとりくみました。この時は、日野原重明先生をお招きして研修会を開催し、看護師の理解を喚起すると共にやる気を高揚することができました。POSを完成させるまでには10年の歳月をようしましたが、いまでも改善を繰り返してよい記録に取り組んでいるのは、看護の質向上の点から必要なことだと思っております。クリニカルパスもは、退職後シアトル市にあるSeattle Pacific Universityで開催された国際看護研修会に5回(年1回の研修会に5回出席)出席し、その後クリニカルパスの研究に取り組み研究成果を発表しました。また「クリティカルパスQ&Aを共著で日総研から出版させていただきました。いずれも当初は、医師達から「そんなに入院期間を短くすることにどんな意味があるんだ!」って言われたりしながら、反対されながらも進めていったのです。でも、POSの開発時には病院長が本当によく協力してくれました。
濱田:とても優秀な看護部長さんが活躍されている時というのは、素敵な病院長と共に進んでいらっしゃいますよね。
齋田:病院長には「本当に良くここまでやったね」って言ってもらいました。病院長は医師の記録を何とかしたいと思っていたけど、出来なかったとのことでした。私が看護記録の改善を患者中心の記録に改善したいと望んでいることを認めてくれたのです。記録の事も含めて、患者さんたちが病院を誉めてくれる時というのは、看護師が頑張っている時なのよね。
濱田:私もそう思います。医療は患者さんの一番身近にいる看護師が支えていますよね。
齋田:そうなのよ。看護師が支えているんですね。
濱田:それでは、今は、どんな生活をされていますか?
齋田:看護学校で関係法規や看護研究、看護管理などを教えに行ったりしています。
濱田:関係法規は今、大変ですよね。制度がどんどん変わっていますしね!
齋田:そうなの。新しい情報をどんどん取り入れて、自分のものにしていかないと、話すことができないですね。学生たちに分りやすく、法律が変わると看護師の毎日の仕事にどんなふうに関わっていくのかを話すと、学生たちの目が輝いてきますよね。それから、どうしてそんな風に変わっていったのかということとかね。いろんな社会的な変化が医療制度や法律にも影響していることを、学生が身近に感じるように分りやすく説明してあげたいのですが。
濱田:関係法規もわかると面白いんですよね。そんな授業を受けている学生さんが羨ましいです。では、現役の看護管理職の方たちを見ていて、思うことはありますか?
齋田:そうね、恵まれているなって思うわね。いろんな形で勉強ができるでしょ。研修も充実しているしね、学ぶ場が沢山ある。副院長というポストもあるでしょ。140名もいるのよね。
濱田:齋田さんがそうなるための道を作ってきたからですよね。
齋田:そうでしょうか?私たちが看護の国会議員を推してね。井上なつえ先生から始まって、多くの国会議員をおくりましたね。時代に即応した看護の制度を作ってきたのよね。社会に奉仕してきたと思います。
濱田:齋田さんのように何かを作り出していくエネルギーを使って、マネジメントを発揮していくために看護管理者へのアドナイスがありますか?
齋田:そうね、恵まれている環境があるけど、とても、疲れているからね。でも、毎日の仕事の中で、なにが問題かを見極める力があるといいわね。例えばスタッフのコミュニケーション能力を高めるための方法なんかを考えてほしいという思いはあります。誰にでも使えるマニュアルのコミュニケーションで患者に説明する状況があります。患者の状況を理解するためには、自立した生活をすることをスタッフに勧めてほしいと思います。自立した生活をすることが、患者の生活を理解し支えることに繋がっていくのよね。
濱田:どうしたら、そういう問題点を見つけることができるのでしょうか。
齋田:そうね、私は若い時から、いろんなことをして来たでしょ。教育とか行政、保健師、そして、管理もだけど、そうやって自分がいろんなことを体験してきたことがよかったのではないかと思うのよね。
濱田:いろんな世界を知ることが良いのでしょうか。
齋田:そうね、しかも、体験をすることが大事ですよ。人に教える、伝えるという仕事をすると管理職に必要なことが身につくかもしれないわね。だから、視野を広げることができる。私が看護部長だった時は、助産師を産婦人科だけでなく、手術室や病棟に配置にしたりしながら視野を広げる支援をしたわね。そうして、いろんな視点から問題を見つけて、取り組みながらマネジメントをしていくから、看護が評価されたのかもしれません。看護師がどんどん集まっていきました。看護学生は新しい取り組みをしている病院にとても魅力を感じるみたいでね。看護師が不足して困ったことはなかったわね。
濱田:看護の質を上げようとする取り組みがいろんな問題を解決していくものなのですね。
インタビューを終えて
今回は、齋田トキ子さんにインタビューさせていただきました。インタビューの最後にこのような数々の功績を自分史として出版されないのかをお尋ねしたところ「う〜ん。まだ、その時期ではないかな。」とお答えになった齋田さんの素敵な笑顔がとても魅力的でした。「まだその時期ではない」という言葉で、「これが、生涯現役という心意気なのかもしれない」と私は感動しきりでした。89歳になる齋田さんのエネルギッシュな考え方と看護に対する思いのパワーに押されつつ、戦後の日本の看護を作り上げてきた看護師が目の前にいらっしゃることに感激しながらのインタビューでした。このような方が、私たちが進めようとしているフリージア・ナースの会の会員になってくださって、活動を応援してくれることに、恐縮すると共に、大きな力に後押しされている思いで、活動を進めて行きたいと思いました。
この記事は日総研出版のナースマネジャーVol.16 No.8に掲載したものです。日総研さんのご協力のもと、ホームページへの掲載が実現しました。